――だというのに。
〈鋭いね。禁術を発動している〉
「そんなことしたら、出られなくなるじゃない!」 〈もとよりそのつもりだから心配しないで。あとのことは天神の娘と始祖神の末裔に任せて隠居するだけだから〉まるで老人みたいだな、とけらけら自嘲する四季が、まるで目の前にいるように見える。
「……知らないわ」
両手で耳を塞ぐ雁。けれど、四季の言葉は遮れない。
〈ボクのことは忘れるんだ、いいね……朝になったら、忘れるんだよ、狩〉
泣きたいほどやさしい声音が雁に届く。
ふたつ名で簡単に縛られてしまう自分がもどかしい。「忘れるものですか! もう、ちからあるひとたちの暗示なんかに従わないんだから!」
そう撥ね退けても、四季の言葉は雁の心臓を抉っていく。
そんな雁を気にすることなく四季はふだんどおり淡々とつづけていく。〈まずは少し先で立ちすくんでるボクの式神を回収してもらおうかな。そしたら救護室で桂也乃たちと合流して。そこで朝まで休めばいいよ〉
「……ひとの話、きいてないわね」呆れながら雁は頷く。最終的には四季に言われたとおりに動かざるおえないのだろう。
〈伊妻の件には関わるな。彼女は魂の在り処を邪神に明け渡している。きみもわかるだろう? 桂也乃が刺されたんだ〉
「……皇一族の、始祖神の血が流れたのね」 〈彼女は帝都に伊妻の残党が慈雨であることを手紙で伝えていたんだ。彼女はそれを知って桂也乃を害した。けど、もう歯車は動き出している。帝都から追手が来る。それですべては終わる〉慈雨のことを指摘され、雁は黙り込む。同室で学校生活を共にした慈雨は、自分をふたつ名で操り天神の娘を害そうとした慈雨は、すでにカイムの神々に見放されている。邪神を浄化しても、慈雨は戻らない。そう、四季は暗に告げたのだ。
「……わかったわ」
彼女を救うことはできない。皇一族に属する桂也乃を害したのが伊妻の生き残りである慈雨だと、知れ渡ってしまったから。いままで革命の刻を待ち隠れていた彼女は、皇一
「銃を捨てなさい、空我柚葉」 ……柚葉が発砲した弾は小環の傍に桜桃がいたからかおおきく外れ、空の向こうへと消えていった。 柚葉が発砲した拳銃の音に、あらたな人物が集いだす。朱色の椿の刺繍が施された黒振袖を着て背筋を伸ばしている少女と、彼女を隣で支えている袴姿の少年。そのふたりを囲うように皇一族直属の陸軍兵士の姿がある。彼らを率いてきたのは湾だった。「……桂也乃さん?」 こんな格好をしていると、まるで異母姉の梅子みたいだ。「なんとか間に合ったわね」 桂也乃は桜桃たちに向けてにこりと笑いかける。病みあがりだからか、顔色は悪い。「空我柚葉。伊妻の生き残りの娘である慈雨と彼女の養父梧種光とともに皇一族に対する反逆をみなしたものとして、神皇帝の名のもとにそなたを捕えさせていただく」 軍服姿の湾が他人行儀に柚葉を呼び、高らかに宣言する。水面下で怪しいと睨んでいた柚葉はやはり黒だった。伊妻の残党とつるんで小環皇子に向けて銃口を向けている姿が、すべてを物語っている。 柚葉は銃口を桜桃と小環に向けたまま、動かない。すでに抵抗する気のない慈雨と種光は女学校にいた『雪』の私兵と湾たちによって集められた憲兵や陸軍兵士によって身柄を拘束されている。だが、首謀者である柚葉を捕えようとする兵士の姿はない。下手に動いて小環皇子と天神の娘を傷つけることを恐れているからだ。 湾は銃を捨てろと押し殺した声で命じてから、憐憫を交えた表情で、さびしそうに付け足した。「天女が選んだ時の花は、お前じゃない」 その、かなしい言葉に、柚葉がぐらりと視線を揺らす。「ゆずにい」 桜桃は思わず柚葉を呼んでいた。「ゆすら、嘘だろ」 柚葉は視点の定まっていない漆黒の深い闇を思わせる双眸を震わせながら、桜桃を探す。自分が愛する異母妹の、理想の姿を。「ごめんなさい」 ――見つけた。可愛い桜桃。僕だけの女神。どうして謝っているの? どうして僕を怖がっているの?
「なぜだ! 春を呼ぶ天女になどならなくても、ゆすらには僕さえいれば良かったんだ! なのに、その男が此の世に栄華を招く天女を愛する伴侶だ? 羽衣だ? 信じない、信じないぞ。この世界に春を呼ぶのは僕とだ。そうだろう? ゆすら?」 いまにも泣きだしそうな柚葉を見ても、桜桃は彼を受け入れることができない。自分と一緒にいたら、彼は壊れてしまう。彼はその程度の人間じゃない。そう思っていたけれど。 柚葉は桜桃が鳥籠から放たれる前から、壊れていたのだ。異母妹を法的に自分のものにするためだけに、ついには国家に反逆する伊妻の残党と手を組んでしまった…… 信じたくなかった。けれど、彼は桜桃のふたつ名である咲良の名で、彼女を縛り、天女の羽衣である小環を殺させようとした。慈雨たちと手を組み、小環ではなく自分が春を呼ぶ天女の羽衣になろうとした。 幼い日に桜桃が慕っていた柚葉は、もういない。「……ゆずにい」 桜桃は憂える視線を柚葉に向け、申し訳なさそうに囁く。ごめんなさい。「あたしはもう、あなたがいる安全な鳥籠に戻れないんです」 そう、口にして桜桃は小環の手をぎゅっと握りしめる。「あたしがともに春を呼びたいと希う男性ヒトは、あなたではなく、小環だから」 宙に漂っていた桜桃と小環はゆるやかな曲線を描きながら地面へ降り立つ。ふたりが立った場所から、勢いよく芽吹きの緑が残雪に塗れた暗い土を覆い尽くし、一斉に色とりどりな花芽をつけ、そこから風船のように蕾を膨らましたかと思えば破裂する。 弾けた花々は青と白の世界に新たな彩りを加え、隠れていた小鳥たちが歓喜の歌を囀りだす。まるで雨上がりの七色の虹のように美しい光景が天と地を結びつけ、睦み合う。 聴こえる。新たな四季の訪れを識ったカイムの民が、春を呼んだ天女と彼女をちからなき天神の娘から覚醒させた時の花という名の羽衣を生み出した始祖神の末裔を讃え、言祝ぐあの神謡(うた)が。 光と色の洪水は止まらない。雪はみるみるうちに解けはじめ、校内に植わっていた梅や桜の花々が狂い咲きをは
鋭く瞳を煌めかせ、雁は己に封じられた真のちからを発揮させる。まるで兎を罠へ追い詰める猟犬のように、慈雨を狙って氷雪の檻を編み出し、これ以上手だしできないよう種光とともに閉じ込めてしまった。「この程度のもの、すぐ壊してやる……っ!」 冷たい檻に囚われた慈雨と種光は抜けだそうと試みるが、『雪』に対抗できる強大なちからを持たないふたりは分厚く透明な氷の壁に阻まれたまま四苦八苦している。 慈雨たちが氷雪の檻から抜け出す前に、桜桃の暗示を解かなくてはならない。雁は声を荒げて桜桃と対峙している小環に向かって叫ぶ。「――篁さん、早く!」「……Nennamora teeta rehe tane rehe erampeuteka」 小環の唱える声が、上空で蝶のようにひらひらと飛びながら氷の矢を放っていた桜桃の動きを制止させる。「その名を呼んでいいのは僕だけだ! お前などに彼女を呼ぶ資格はない!」 宙でぴたりと止まった桜桃に、柚葉がなおも声をかけるが、額に星の花を咲かせた天女の耳には届いていない。「〈昔の名と今の名を〉――ノチュウノカたる始祖神の末裔オダマキが命ずる。天空の至高神の加護持つカシケキクの者よ、縛られしふたつ名をその身より解き放て!」 界夢の地から去る際に、逆さ斎が教えてくれた、桜桃のなかに潜む天女のちからを呼び出す、ふたつ名を心に浮かべ、小環は強く念じる。 ――咲良のちからを持つ桜桃、俺に応えろ! ぴたりと止まっていた桜桃の白い西洋服の裾が、風に揺らめく。いまは亡き『風』の部族、レラ・ノイミが小環に味方したかのように、あたたかく、心地よい風が、カイムの地をサァアアアアアッと通り過ぎていく。 そして、冴え冴えとした冬の蒼穹は黄金色に煌めく太陽によって淡く白く塗りつぶされ、やわらかい水色の空へと変わっていく。 額に星の花を咲かせた天女の瞳の色も、優しい榛色……いつもの桜桃の虹彩に戻っていた。そして、桜桃に導かれるように小環の身体が浮かび上がる。
「ゆずは――空我柚葉が、伊妻が崇める『雷』の王だったんだな」 小環の悔しそうな視線に気づいたのか、慈雨が笑顔で歩み寄ってくる。「あら、狩さん。誇り高き神嫁として嫁がれたのではなかったかしら?」「おあいにくさま。あなたにかけられた暗示なら、ここにいる始祖神の末裔に解いてもらいましたわ」 だからもう慈雨の暗示にはかからないのだときっぱり言い切り、雁は慈雨の瞳をきつく睨み返す。「そう。残念ね。でもいいわ、あなたよりももっと素敵な玩具を見つけたから。ねえ、小環さん。まずはあなた、遊んでくれない?」 くすくす笑いながら慈雨は雁から視線をそむけ、小環を挑発する。「遊ぶだと?」「そう。春を呼ぶ遊び。天女には羽衣が必要でしょう? 我らが『雷』の王とあなた、どちらが天女に選ばれし者なのか。そしてどちらが滅ぶべき者なのか……ねえ。此の世に栄華をもたらす天女に殺されてみない?」 その言葉が終わるのと同時に、柚葉が桜桃の耳底に甘い囁きを落とし、天女のちからを覚醒させる。「桜桃?」 純白の西洋服をひらひらと蝶のようにはためかせながら、星の花を額に咲かせた桜桃は柚葉の腕から羽化し、天高く舞い上がる。 ふだんの灰色がかった榛色の瞳は、神聖さと禍々しさを共にした濃紫色に染まり、無感情のまま小環たちを見下ろしている。「皇一族の第二皇子。あなたの存在は我らの野望の障害となる。いまここで、天女によって命を散らすがよい!」 昂揚した声をあげるのは慈雨の養父である梧種光。彼自身、天女のちからの偉大さを目の当たりにして感動でその場に立ちつくしているようだ。小環は彼の言葉を無視し、柚葉によって天女のちからを解放した桜桃に向けて声を荒げる。「桜桃! 俺がわからないのか! 春を一緒に呼ぶのは俺だって言ってただろ?」「この男の言葉に騙されちゃ駄目だよ。信じていいのは僕の言葉だけ。春を呼ぶのに邪魔な彼は、殺してしまいなさい」 ぞっとするほど柔らかい声音。桜桃は柚葉の声に反応して従順する。素直に彼女はカイムの
「ちょっと手荒だったかな。まあ彼なら大丈夫だろう。それより『雷』の王ね……君はそこまで識っていたのかい? 桂也乃」 小環の気配が消えたのを見送るように、西洋服姿の桂也乃が四季の前に現れる。閉じられたままの彼女の瞳に四季が手を翳すと、夜空を思わせる藍色に近い黒の双眸が四季の前へ顕現する。「きみの魂ならボクが回収したよ。戻るんだ。きみを待つ大切なひとたちのいる世界に」 桂也乃の瞳からは透明な涙が溢れている。四季は彼女の前に跪き、落ちてきた雫を自らの手のひらで受け取り、やさしく言葉を紡ぐ。「きみにしかできないことをやり遂げるんだよ。まだ、きみはこの世界に来ちゃいけない。ボクのことは忘れるんだ」 帝都出身の桂也乃にふたつ名はない。だから四季が名前で縛って自分のことを忘れさせることはできないけれど、忘れさせる暗示をかけることならできる。ほんとうなら、覚えていてほしい。でも、自分のせいで桂也乃がいつまでも罪の意識を感じる姿は見たくない。 桂也乃は首を横に振り、四季のことを忘れたくないと泣きじゃくる。「さよならだよ、桂也乃」 四季は子どもを宥めるように桂也乃を抱きしめ、おとなのように、舌を絡める接吻をする。 桂也乃が驚いた顔をして、四季に手を出そうとした瞬間、天に開いた漆黒の闇は黄金色に染め上げられ、桂也乃の姿がかき消える。 夜明けだ。 四季は頷き、白い大地に大の字になる。「桂也乃の平手、届かなかったな……」 くすくす笑って、四季は訪れた睡魔を素直に受け入れる。次に目覚めるときはきっと。 ――何も覚えていない。 * * * 寒椿の花が咲き乱れる女学校の片隅で、小環は意識を取り戻す。いままでまともに顔を見ることのできなかった太陽が、青々とした空の上で燦々と輝いている。「……っ」 いままでの出来事は夢だったのだろうか。冷たい大地を溶かしていくように、太陽の熱が小環に注がれて
呼ぶ声がきこえた。「桜桃?」 小環がハッと後ろに振り返った瞬間、地面が極彩色に変貌する。 ぽす、という間抜けな音とともに、桜桃が自分の胸のなかに飛び込んでくる。彼女の額には星のような大輪の躑躅の花が咲いている。「――そういえば、空我家の花印は躑躅だったわね。神々も粋な計らいをしてくださること」 くすくす、という笑い声とともに、慈雨が桜桃たちの前へ立ちはだかる。「……畜生、ついてきやがった」「あなたを見張っていれば天神の娘……いえ、もう天女のちからを取り戻しているとみていいのでしょうね……彼女の居場所もすぐわかるもの。だけど、逆さ斎までいるとは思わなかったわ」「ごきげんよう、邪悪なる『雷』に魅入られし娘」 四季は慈雨を前にしても驚くことなく、淡々と言葉を紡ぐ。「あたくしがこの地に出入りしていることをあなたは識っていたのかしら。だからそこまで冷静なのね」 つまらなそうに慈雨は四季の言葉に応え、警戒している小環と状況が理解できていない桜桃をじっと見つめ、にこやかに告げる。「天女とその羽衣、あなたたちが一緒になると、『雷』の王が嘆き悲しむの。悪いけど」 慈雨は笑顔を張りつけたまま、桜桃の額に向けて術を放つ。「Meshrototke〈眠って〉」 ピシ、と額に刻まれていた躑躅の印は一瞬で薄まり、桜桃の周囲に咲いていた色とりどりの草花もふたたび冬眠に陥ってしまったかのように散ってしまう。地面が枯れ草に支配されると同時に、桜桃の身体もがくりとちからを失い、小環の腕のなかで意識を失っていた。「なにっ」 こうもあっさりちからを抑え込む慈雨に、四季が声を荒げ、瞳を瞬かせる。「カシケキクの血が流れているのはあなただけではなくってよ。伊妻の祖が帝都へ移り住んだ三神みかみだということを、忘れていたわね?」 カシケキクの傍流はカイムの地に数多といる。その多くは身に神を宿すという意味のミカミを